オオノヨシヒロ講師インタビュー
講師インタビュー絵本だけにこだわらない視点で、絵本の外から見た絵本を作る!
今回の特集講師インタビューは、絵本コース講師のオオノ ヨシヒロ先生に、絵との出会い、学生時代から講師になるまでの絵との関わりや、ご担当されている絵本コースや通信講座についてお伺いしました。
- ―― 絵の学校を出ていないのですね?
- そうです!ですから昔からずっと絵の学校に憧れていました。
高校の時に進学の話があって、絵の学校へ行きたいと言ったら、絵の世界の仕事をしていくことの可能性のないことを担任から言われました。
もちろん家でも、絵の道に進みたいということを言ったら、どうやって食べていくのかと、職業としての難しさを教えられました。
今はこうやって、絵の講師をしていますが、よく講師をやっているなと時々自分を振り返ることがあります。
自分は講師としての役割、価値があるのかといつも考えたりします。
- ―― でも講師をされてもう何年にもなりますね…
- もう十年以上になります。
- ―― 講師をやっておられる原動力はなんですか?
- ずいぶんたくさんの生徒さんに出会いました。みなさん情熱を持っておられます。そしてつくづく絵の世界は奥が深く難しいと、そして無限の可能性に満ちあふれていると思います。原動力について、私の絵との関わりを自己紹介をしていきます。
絵との出会い
- ―― 最初の絵のきっかけはなんですか?
- 母親に京都タワーで本物の油絵を買ってもらったときは本当に嬉しかったです。もともと絵を観るのが大好きですから、無名の画家のサムネイルサイズの額付きの油絵です。海の絵で大胆に描かれていてまるで抽象画のようにシンプルでした。それを家に飾っていたのですが、無名の画家の絵なんですが、空間が引き締まるんです。その時に本物はすごい!と感じました。
当時はセザンヌが好きで複製画をおこづかいで買っては家で毎日観ていました。その後に絵をはっきり好きだと夢中になったのは、中学の時です。
そのとき3つの出会いがありました。
- ―― 3つの出会いですか?
- 1つは1970年の大阪万博の太陽の塔です。太陽の塔を作った人がアーチストということを知りました。
太陽の塔を観た時に圧倒されました。理屈ぬきにすごいなと子供心にびびりました。あの時万博ではたくさんの観る物があったのに、太陽の塔しか記憶に鮮明ではありません。言葉にいえない情熱のかたまりが、どかーんと突っ立ているのに感動しました。
- ―― 2つ目の出会いは何ですか?
- 京都市美術館でメトロポリタン美術館展に行きました。
画集に出てくる名画がいっぱいきていました。
その中で特に印象に残ったのは、レンブラントの絵でした。ポートレイトで顔しか描いていないのですが、油絵の真髄というか、絵具の力の凄さが分かりました。
- ―― 3つ目の出会いですね
- 3つ目はテレビでレオナルド・ダ・ヴィンチの生涯の外国の放送を観ました。
たしかBBCが制作した番組でドラマになっているのですが、ドキュメント風に作っていました。
これ以来私はレオナルドのドローイングをいつも模写ばかりしていました。
この3つの出会いで私は絵の世界に夢中になってしまいました。
- ―― その頃は絵の道に進みたいと思っていました?
- 中学のこの時期から強く思うようになりました。
ですから朝から晩まで模写にあけくれました。
- ―― ドローイングだけしていたのですか?
- いえいえもちろん油絵も描いていました。兄が高校にいって美術の授業で油絵を描くので油絵の道具一式が家にあって、かってに使って描いてました。
京都で手に入れた宮本三郎の油絵入門という本から学びました。
- ―― 油絵はどうでした?
- 楽しくてしょうがないですね。こんな事を毎日できる画家がうらやましかったです。風景画とか静物画を描いていました。
進路と絵と
- ―― 高校へ行かれても絵の道へ行きたいと思っていました?
- はい、高校へ行っても気持ちは変わりませんでした。
しかし高校2年の終わり頃に、進学を意識したときに美術の先生に進学の為にデッサンの勉強を教えてほしいと頼んだのですが、あまりいい返事がかえってきませんでした。その時に一学年うえの先輩は専門学校を受験するため、鉛筆デッサンを放課後に教えてもらっていました。
その時に頼りたい先生に拒否されたので、孤立した気持ちでどうしようもない状態でした。
- ―― 美術の学校をあきらめたのですか?
- どうしようもない孤独感に襲われ、しかたなしに一般の文系の大学を目指しました。どうせやるなら面白そうな学問をしようと変更しました。
- ―― 美術以外の学校へ行かれたのですね?
- 結局浪人して社会学部に入学しました。そこでゼミで社会思想史の先生のゼミを選びました。しかし、ここのゼミはどういうわけか美術館の学芸員に卒業してから何人もなっているゼミでアート・芸術の研究できるゼミだったのを、入ってから知りました。絵と縁が深いなと思いました。
卒業論文では美学論文を書きました。先生がこころよく認めてくれましたので、勉強が楽しかったです。
卒論の時に、自分がなぜ絵を好きなのか、芸術とは何かとか、前から気になっていた事を卒論を通して自分の頭の中を整理してみたかったのです。
ですからこの時期もちろん絵を描いていたのですが、絵について深く考える時間を持てたのは貴重な時期でした。この時に一般の学校へ進んでもいいことがあるなと気持ちが整理できました。いままでもやもやしていた気持ちがふっきれました。
- ―― 卒論は無事に完成しましたか?
- なんとか完成しましたが、私のなかでは未完成です。もっと深く考えないとまだまだ考えが浅いと反省しています。
- ―― この時期はどんな絵を描いていましたか?
- 大学の美術部に入りました。
この美術部は具体美術協会の創立者の吉原治良さんが出たクラブで、レベルが高い部です。入部している部員のなかには、東京芸術大学を受験した人もいました。志が高く、いい刺激になりました。新入部員にいきなり100号の絵をいつ迄に描かせてできなかったら部員としていられないという、厳しい部でした。そのとき合同展で白髪一雄さんが講評してくれるという恵まれた部でした。
大学卒業後
- ―― 大学卒業後は絵の道は考えなかったのですか?
- 就職活動の時に絵にかかわる仕事ができたらいいなと、印刷会社に描いた絵を持って面接にいきました。我が社は絵の専門学校をでてないと、デザインの仕事はできないと断られました。
営業でもいいから入社しようと思い、開発営業部に入りました。
東京本社採用で、最初はお茶の水、新宿と働いていました。
途中でデザイン部へ行くことになりました。デザインは全くやったことがないのでチンプンカンプンでした。だからといって新人を育てるように訓練とか研修というのがなく、現場で自分で覚えなさいという所でした。最初は分からなかったのですが、一年経つと理解できました。
この頃に余裕ができてきまして、休みの日に映画を観るようになりました。
吉祥寺の名画座でラストタンゴインパリを観まして、映画館を出てから映画は面白いなと興味を持ちました。イメージフォーラム付属映像研究所で実験映画の制作する夜間学校へ通いました。ここでの勉強は本当にいっぱい多くの学びがありました。
- ―― 絵をやめられたのですか?
- いいえ、絵は社会人になってもずっと制作していました。東京の画廊へ行ったり、もちろん東京で個展をしました。映像と絵と両方やっていました。
この時期は東京ではじめてフランシス・ベーコンの大きな個展を観れました。
そして、ヨゼフ・ボイスとパイクの展覧会を西武美術館で観ました。
- ―― いろんなことをやっていたのですね?絵本はいつからはじめたのですか?
- そうですね、もっと後からです。東京に10年以上いまして、大阪に転勤してから、銅版画を制作していました。個展をやったりして、このころやっと自分の絵の芯が固まってきたころです。その10年あとにボローニャ絵本原画展を観ました。その展覧会を観て絵本を出品してみたいと、はじめて思いました。いざ作ってみるとけっこう簡単じゃない。なんててごわい世界と思いました。
この頃はインターネットがありませんので、英語を全部翻訳するだけで大変でした。出品したら入選しました。海外のコンペは版画のコンペで入選したことがあるので、そんなにびっくりしませんでしたが、絵本で通ったことで意外だなと思いました。全然絵本の勉強をしたことがなかったからです。
- ―― 仕事はずっとデザインを続けていたのですか?
- この時期はスーパーで働いていました。
印刷会社を辞めてデザイン会社でデザインを制作していましたが、違う業界で働いてみたいと、スーパーにいました。スーパーでは本当はデザインをやる予定だったのですが、現場で働いていました。しかし個展はやっておりました。この時期は抽象画をずっと制作していました。
会社の人事取締役で、私を採用してくれた人にボローニャに入選したことを報告したら、イタリアへ行ってこいと言われて、ボローニャに行きました。しかし当時のボローニャには他の通った日本人がきていませんでした。
その後にベネチアのコンペに通りイタリアから初めて絵本を出版しました。
- ―― アートスクールの講師になられたのはその時期ですか?
- もう少し後ですね。スーパーを辞めて絵の道だけでの生活がはじまりました。新聞で講師の募集を知らされ、応募しました。イタリアから出版された本があり採用されました。
アートスクール 絵本コースについて
- ―― はじめての講師の仕事はどうですか?
- いままでまともに人に習ったことがなく、自分で考えて制作してきましたので、孤独な中での制作ですので、なかなか思うように描けないとか、制作の悩みはよく共感できます。私の場合は描けない状態からスタートしていますので、生徒が悩んでいることがよく分かります。描けないという前提で絵を描くことの意思を大事にしています。私はどちらかといえば、絵を描くマインドを根底のベースにして指導しています。
精神的につまづく所とか分かります。生徒さんと同じ目線で考えるようにしています。
- ―― いままで絵本の生徒さんではどんな人がいましたか?
- たくさんのいろんな生徒さんに出会いました。みんな才能をしっかり持っています。
- ―― 才能のある人の共通点はなんですか?
- やっぱり継続するチカラです。それからセンスが大事です。
絵のセンスです。継続していても的をはずすと、センスがずれていると苦労します。
- ―― 第一線でご活躍されているミロコマチコさんも当校の絵本コース出身なんですね?
- そうです。彼女は入った時から凄かった!
弱音をはかない。強いんです。ゴムのように柔軟性がある強さです。
決断したら迷わない。まるでアスリートのようにグングン、ゴシゴシ絵を描く。
大きい絵なんかちっともびびらず絵を描いてしまう。
彼女の絵はすごく大胆なんですが、当時彼女が入校して最初の頃、水彩の模写をしていますが、実に丁寧で繊細です。
全く正反対の絵を描けるので、あの大胆さは実は繊細さなんです。
日本の映画監督の黒澤明が制作のモットーにしていましたのが、悪魔のように細心に、天使のように大胆に、と言ってますが彼女の作品はまさに両方があります。実に計算されつくしています。
- ―― 印象に残ったエピソードがありますか?
- そうですね、彼女が面白い画家を教えてというので、バスキアとフランシス・ベーコンを紹介しました。そしたら次回の授業で画集をもう買ったというのです。とても行動力のある人だと思いました。
- ―― 当校では授業だけでなく、通信教育の添削もされていますね?
- はい。私は絵本・挿絵のコースの担当をしています。通信講座は全国から来ます。
時間の隙間にどう返答するかをいつも考えております。
私自身社会人になってからもデザインの通信教育を東京にいた時に習っていました。仕事の帰りイメージフォーラムという実験映像の学校に行ってましたので、時間がなくデザインは通信でカバーしていました。会社ではデザインの事をいまさら教えてくれませんので通信でカバーしました。
- ―― ご自身も通信講座を受けられていたんですね。
- はい。デザインだけでなく、大学受験のために通信添削を受けていました。
早慶をめざす通信講座でした。最初さっぱりわからずついていけるだろうかと不安でしたが、とにかくやり遂げようと最後まで終了させました。これが終わったとき、自信がつきました。結局早慶は受験できなかったんですが、実力がつきました。ですから私は通信を受講されている生徒さんの気持ちがよく分かります。それと生徒のやる気が伝わってきてエネルギーをいただいております。
- ―― 絵本コースは、アートストリーム、チョイス、HBファイルコンペ、ワンダーシードとか、
絵本以外のコンクールにも出品していますね? - もちろん絵本のコンペも出品していますが、絵本だけにこだわらない授業をしています。あえて絵本の外から見た絵本を作るように心がけています。
場合によっては、生徒の中では絵本を作らず、立体ばかりつくっている生徒さんもいます。イラストレーション、版画だけやっている生徒も何人かいます。
私の教室はなにを描いてもかまいません。
そういうところから、次のミロコマチコさんのような人が育っていきます。
そう信じています。
- ―― 有難うございました。
オオノヨシヒロ先生、今後も一層のご活躍をお祈りしています。
オオノ ヨシヒロ プロフィール
関西学院大学社会学部社会学科卒
イタリアボローニャ国際絵本原画展
キオッジア市コンクールグランプリ
絵本『La citta bucata』出版イタリア
絵本『かえりみち』出版 すずき出版
絵本『しりとリズム』出版 PHP研究所
絵本『La citta bucata』マドリッド、バルセロナで出版
絵本『のあのあが』出版 至光社
絵本『やさしいきょうりゅう』出版 小学館
絵本『うみのうえでクリスマス』出版 至光社
絵本『だって だって うさぎ』出版 至光社
絵本『やったぁ!』出版 至光社
絵本『カラスネコチャック』出版 小峰書房