山本尚子講師特集インタビュー
講師インタビュー今回の講師インタビューは、美術科講師 山本尚子先生です。山本先生の幼少期から社会人の今に至るまでを赤裸々に語っていただきました。抜群の企画力で、アートスクール大阪の講師としても、アートスクール大阪以外の場でも様々な活躍をされている山本先生。そんな先生のお話是非ともじっくりお楽しみ下さい。
- ―― はじめに山本先生が、絵を描き始めたきっかけについて、順を追って教えてください。
- 先生の子供の頃って、どんなお子さんだったんでしょうか。
•幼少期について
母親に「あなたは子どもの絵を描かなかった。」と言われました。
いわゆる「擲り描き」や女の子がよく描く「お姫様や女の子」のような絵を描かなかったようです。2、3歳の時に急に「ディズニー」や、文字が書けないのに「絵本」を描き始めたらしいんです。母の趣味で、物心がつく前からよく美術館に連れて行かれていたのも影響してるのかもしれませんね。その頃、好きな作家が「モロー」と「ピカソ」でした(笑)。- ―― なるほど、幼少期にして好きな作家が「モロー」と「ピカソ」(笑) これは、今美術の道に生きる山本先生のルーツが垣間見えますね。
- 幼少期以降のお話もさらに聞きたくなりました。続いてお願いします。
•小学生期について
絵の具や版画も好きでしたが、漫画の真似が多かったですね。鳥山明のアシスタントになるのが夢でした。
BSでやっていたボブ・ロス(Bob Ross)の30分で描きあげる油絵の番組に夢中で「油絵の具が欲しい」と親にネダっていましたが「まだ早い」とお預けを食らっていました(笑)。油絵の具の代わりにサンタクロースから80色の色鉛筆をもらい、今でも愛用しています。
その頃、私が絵を描く原動力は「現実逃避」でした。イジメられていたのでw
しかし、母親に「私は子どもの頃暗い子だったよね」と聞くと「はあ?」と呆れらます。そういえば女の子にはイジメられていたのですが男の子とは喧嘩して泣かしてたんですよ。 多分、父親の持っていた「硬派銀次郎」の漫画に影響されていたんだと思いますw「女子どもには手を出してはいけない」=「男なら戦って良い」っていう変なマインドセットをしてしまったんでしょうね。実際5人くらいの同級生の女の子達に囲まれた時、向かって来た一人を投げ飛ばしてしまって大騒ぎになったこともありました(笑) それはともかく、私としては「自分は根暗だ」と思い込んでいたので、現実世界が嫌で嫌で仕方なく絵の世界に逃げていました。絵の中では自分が創造主であり、思い通りの好きな世界を創り上げられるから。技術が自分の想像力に追いつかないのが悔しくて本格的に絵を学びたいと思っていました。しかし、母は絵画教室に通わせてくれませんでした。理由は「先生の癖がついたら困る」と思ったからだそうです。一般的な絵画教室では先生が一人で「その先生の絵に似せて描く」パターンが多いようです。まあ、技術を学びに来ているのだからそれでいいんでしょうが、母は私がまだ自己の表現を確立しないうちにそれをすべきでは無いと判断したんでしょうね。 アートスクールの良さは多種多様の講師がいることだと思います。それによって一人の作家の思想や描き方に偏らす、生徒さんが自ら選び、探求していける教室になっている。それって結構凄いことだと思います。 私も個人の感性や想像力を最大限引き出せる指導を心がけています。 最近、特に小学生や中学生の生徒さんも増えて来ているので、自分の表現を押し付けて個性ある表現の探求を妨げないように気をつけています。
- ―― なるほど。先生のお母様のご判断は、山本先生の個性を閉ざさないようにされたものだったんですね。 また、そんな経緯から今の指導姿勢にも繋がっているというのが、とても素晴らしいですね。
•中学生期について
やっと油絵の具を買ってもらえた事をきっかけに絵画を習い始めたのですが、、、残念ながら中学の「絵画部」は「漫画部」化しており1年生の時は勝手に一人で描いていました。
2年生になって先生が変わってからデッサンや油絵を教えてもらっていたのですが他の絵画部の子達は漫画を描く子が多かったので、マンツーマンで教えてもらえてラッキーでした♪ その時も教室には一切通わずでしたが、岡山県で唯一絵画コースのあった総社南高等学校に推薦入学しました。総社南は岡山で3大進学校の一つだったので、正直頭の良く無い私は一般入試だったら入れてなかったと思います(笑)
•高校時代
まず、鼻をへし折られました(笑)それまで「自分には絵がある」とタカを括っていたのに「美術コースの人達は絵も上手く、しかも頭もいい」んですよ。 とにかく美術の成績では上位三位に入る事を死守しましたが、他の教科では最下位をとったこともしばしば(苦笑)。先生には「絵ばっかり描いとってもおえんのんで。(←岡山弁:ダメなんだぞ)」とものすごいドスの利いた声で怒られました(笑)。
- ―― 鼻をへし折られた(笑)中学から高校へとなってさらに世界が広がったんですね。 世界が広がって、何か変化はありましたか?
その時期から自分の表現は「逃避したい架空の世界の描写」から「自分の傷をさらけ出す」事に変わり、自虐的な絵が多くなりました。上手いだけで勝負できないと悟ったからなのでしょうね。自分が抱えている心の傷をさらけ出す事で作品にインパクトを持たせようと思ったのだと思います。当時は無意識というか、無我夢中でしたが、今思えばそうだったなと。まあ、どっちにしろ現実逃避ですけどね(笑)
- ―― 徐々に徐々に大人へと成長していく山本先生が伺えますね。大学生時代はいかがでしたか?
•大学時代
イキリマックスです(爆笑)。
- ―― イキリマックスwwww と言いますと?
「美術史に名を残す」と本気で思ってましたwww
しかし、大学には更に上手い、だけじゃなく表現にものすごい説得力を持った人たちばかりいたんですよ。もうねw正直「参った、、、」って感じでした(笑)でも、それと同時にすごくワクワクもしたんです。私は自分が表現すると同じ、いえ、それ以上に他者の表現を受け取るのが好きだったので。素晴らしい表現者がいてくれる事に感動してたんですよね。 それで演劇を始めたりもしました。役者、音響、照明、衣装の表現をどうやったら最大限引き出せるのか?そういう総合演出、監督的な役割が性に合っていたんじゃないかと思っています。
- ―― なるほど、ようやくここで、今現在の山本先生の活動のベースが確立されてきたのかもしれませんね。
•社会人になって
自分の企画力?(集団をまとめたり指導するのが好きな性分)を生かして仕事をしようと決めて幼稚園での児童絵画の指導やこの大阪アートスクールでの講師の仕事をする傍ら、ギャラリーでのアートマネージメントの研修や展示の企画、自身の作家活動としては海外アートフェア(KIAF・Santa Feなど)、NPOの立ち上げ、と色々手を出しまくってます(笑)。
- ―― とても幅広く活動をされているんですね。
二十代は正直足掻きの日々でした。自分に何ができるのか?どうやって生きていけばいいのか?迷いに迷い。ブレにブレまくっていたように思います。
実際、表現においても画風がバラバラです。映像や写真、文章など「自分が表現したい事に一番適した表現方法(メディア)を選択する」という制作をするので、そもそも自分が「描きたい画風」とか無いんです。器用貧乏を生かして模写のお仕事をさせて頂いたこともありますが(笑)
でも、そんな足掻きの中で「表現に寄与する事」が絶対条件だ。と気づきました。今は「何をすべきか?」ではなく「何がしたいか?」という思考で動いています。「正しい判断」ではなく「最善を尽くすにはどうしたらいいか?」と考えるようになって楽になりました。だって、今までも最善を尽くして来たから。成して来たことも、出来なかったことも、最善だったし全力だった。そうやって過去を肯定できて初めて、今を楽しみ未来に希望が持てる気がします。
このアートスクールで生徒さんたちに学ばせてもらうことは本当に多いです。微力かもしれませんが、私も皆さんに何か返せるよう日々精進しながら「表現に寄与する」という願望を叶えてゆこうと思っています。
- ―― 「自分の表現を押し付けて個性ある表現の探求を妨げないように」と指導を心がけている先生。 幅広い現在の活動や、そのお人柄がやはりそこに繋がっているんだなと強く感じるインタビューとなりました! この度は、お忙しい中インタビューに答えてくださりありがとうございました!